2007-05-12

ファッショ

 音楽史の試験勉強しないとならない。

 ミッカの音程練習した。

 シェーンベルクの音程も。


 シェーンベルクの音程をさらってて感じたけど、西洋音楽って、音程をそれぞれかなり思い込みのように
「シはシだ!!」「ソ♯はソ♯だ!!!」と決め付けて体にいれていかないと、ちゃんと曲の中の音程にならない。
さすが、ファシズムの音楽だなあ、と思いながらさらっていたけど、自分のように、「シはときどきシっぽくないときもあっていいかもしれない」とか「ここにはソ♯が書いてあるけど便宜上で、解釈次第で・・」とかのようにいかにも日本的にあいまいに譜面を読んでいるとぜんぜんシェーンベルクらしくならない。ふにゃふにゃになる。

 根の気質が日本的だから、こんな分別臭いゲルマンファシズムのような頭の回路にするのはおっくうだけど、やはり切り替えないとどうにもならない。


 とはいえ、なんか時代錯誤っていうか、こんなことを続けているべきなのかな・・と思ってしまう

 アジア人がレンガの音楽ではなくて、藁葺きの音楽に早く戻れるときがくるといい

2007-05-09

WASABI MIX

 前々からスゴスゴした感じで学校が企画していた室内楽のデカイ企画が、あっさり倒れたらしくて、今日は一日なにもなかった・・のでかなり休みました。

 もうこの学校の企画倒れ系のネタは飽き飽きするほど体験しているので、「またかぁ」程度だけど、あそこまで気合入れてた感じのまで無くなったりとかすると、いよいよもう信用できないっていうか、まあもう日本帰るし、どうでもいいかな感も漂います。


 で今日は明日のレッスンのためにクセナキスをさらい倒す覚悟でいたのだが・・左の親指を軽く炒めてじゃなくて痛めてしまって、結局ほとんど遊んでたじゃないか・・笑
ってことで明日も先生キレさせると思います ごめんなさい先生

 ベルギーに留学しながら言う話じゃないけど、阿部寛の演技が良い。「自意識」を感じさせない演技。
別にうまくないんだけど、引き込む表現というのかね。
ほとんどの俳優の演技が見ててイライラしてくるのに比べて、彼の演技は段違いです。こういうのも音楽と同じだなあ、とか思いながら、つまみにビールで俺はなにをやっているんだ・・


 ということで最近見つけたこっちのつまみ
日本コーナー

「wasabi mix」てのと
「Hot Rice」てのにはまってるんですが、
かなりいける。




わさびミックスは、なんかの豆にせんべいみたいのがコーティングされた見た目ぎんなんみたいなやつ。になんとなくワサビの香りが。日本で売っても絶対売れる というか日本に売ってた記憶がある

ホットライスは、普通に「歌舞伎揚げ」。

こんどは「bansai mix」ってのもトライしてみます。

オランダの日本風食品とかは悲惨という話を聞いたけど、ベルギーはなかなかやる。

「yakisoba noudle」とかも、見た目は東南アジア風だけど、中身は工夫次第でいいものが作れる

そういう感じで、すっかり日本の生活をこっちで築き上げている日々です。だんだんこうなるんだろうな。



ふむ・・ちょっと気がたるんどるな・・引き締めないと。

2007-04-26

ジョン・ケージの日




 長いです

 とてつもなく疲れた・・こんなに大変な日になると思っていなかった。

 コンセルバトワールのジョン・ケージ祭、ジョルネ・ケージが終わりました。

 どこが出資元なのかもわからないけど、かなり気合入ってて、学校総出の企画で1日3回のコンサートでケージのありとあらゆる作品を演奏しまくりました。学長も来ていた。


 で、自分は16時からの部と20時30分からの部に出演させてもらった。

 16時からの部は、私の弾く「6つのメロディー」ギターデュオ版を、「リヴィングの音楽」のあいまに散りばめた超フリースタイルで切れ目なく演奏しました。
お客さんの椅子もバラバラで、中心も無い感じで、中心ぽいところにソファーとリヴィングっぽいテーブル、植木とかが配置され、いつも試験で使う教室が一瞬にしてリラックスリヴィングルームのようになりIDC大塚家具みたい。


 「リヴィングの音楽」は、4人の奏者がリヴィングの空間を使って、そこらへんにある雑誌とか、テーブルとか、椅子とかをアフリカンリズムのように鮮やかなコンビネーションで奏でるリズム音楽。
まるで日常のシーンから突如見えない音楽が湧き上がってくるみたいで、よかったです。

 で、彼らの楽章のあいまに、小品を一つずつ、お客さんの中に立った私たちが演奏しました。
 窓も開け放たれてて、夕方に、だれかの練習する音とかも迷い込んできて、たゆたんだような我々の空間と絡み合って、かなりよかったと思う。

 中心のない演奏会場の雰囲気ってなかなか良い。


 それから18時からあった「サティーへの手紙」と題したピアノ音楽の部を聴きに。

 プリペアドピアノのための小品、生で聴いたらものすごい衝撃。あれは生で聴くべき。ちょっとプリペアド具合が足りなかったような気もする。


 20時30分からはホールにあるカフェに移動して大トリ。

 12台のラジオのための”ランドスケープ”と、ヴァリエーションのⅠ~Ⅳを演奏。

 プログラムを貰い忘れたんで曲名がわかんないんだけど、4人の演奏家がトイピアノや石やサイレンやピストルで演奏した曲が、そうとう来た。

 ほとんど、「ポーン・・」とか「ガーン・・・」「グシャシャシャ・・・」みたいな単発音だけで出来てるんだけど、ある程度時間がたってふと気がつくと、その沈黙の美しさに唖然・・沈黙の距離感の美しさ・・これはほんとうに、ベタですが龍安寺の石庭を前にしたときのような特別な空間感覚。

 あるすごいタイミングでお鈴が、ポーン、と入ったときにはその西洋装飾の天井を眺めながら泣きそうになってしまった。

 沈黙に聴こえてくるバイクの音とか、夕方の湿った外の雑音もフと入ってきたりして、なんか小学校のときのけだるい夕方とかを思い出した。


 ラジオの曲の演奏はまあまあだったと思います。演奏してたからよくわからないけど。俺のラジオには突如ロシア語放送とか入って嬉しかった。


 ヴァリエーションは一番難しかった。
4作品とも完全な偶然性の図形楽譜をつかった作品で、リアライゼーションの誠実さが一番問われる曲だと思う。ほんとに厳しい。

 我々がやったのは、そうとうユルイ部類の演奏だったんじゃないでしょうか。単純に即興をするっていう。「適当」の一歩手前、紙一重。

 もっと極限まで完璧な作りこみをしたかったなあ。
極限まで作りこんで、そこから一気に解放するっていうコントラストのある演奏がしたかった。


 追記:この日の午前中には学校で、ブリュッセルからそのスジのスペシャリストの方が来て、「アフリカンリズム、インドのリズム、どうなってるの?」の特別セミナーがあったのだけど・・・インドのリズムすげーーー・・・・・宇宙・・

2007-04-10

休み中

 日曜日からはずっと家にいて疲れをとっています。
復活祭の休みだからね。

 今日メディアテックでフローベルガーのクラヴサンの組曲集を借りてきて聴いてます。Bob van Asperenの演奏。
 演奏がいいのか楽器なのかは分からないけど、かなりいい。。

 楽器は作者不明の1700年代のフランスの楽器らしいけど、チェンバロの印象を覆されるほど豊かでたおやかで美しい
 一緒に借りてきたバッハのフランス組曲も聴いたんだけど、やっぱバッハはもういいや、って感じ。高橋悠治の「バッハはもういい」じゃないけど


 バッハより前の作曲家の作品はことごとく、ゆったりした夜に聴いても、疲れた帰宅後にどっぷりとリラックスしながら聴いてもとても心に染み入ってくるものが多いとやっぱり思う。

 フローベルガーははじめてしっかり聴いてみたけど、時間の情緒がまだ生きている時代の音楽だなと思ってちょっと意外だった。

 ギタリストがたゆたみながらコードをかみ締める感じが、クラヴサンにある。バッハになると急に、鍵盤を前にした事務員のような窮屈さが出てくる。とたんに、「クラシック音楽(古典派て意味じゃなくて)」聴いてる気分になる。


 バッハって、やっぱ勉強するべきなのかな・・?その辺最近よく分からなくなってる部分。まあ、弾きたかったら弾けばいいとは思うんだけどね。



 ところで全然話が違うけど、最近日本の携帯観察してて、こっちと比べての先進具合にあらためてスゲーと思ってます。SIMロック方式(?)が日本の携帯産業を鎖国状態にしてるっていうけど、鎖国なりに発展度がやっぱりすごい。。独自の温室で発育してるって感じで。

 こっちの携帯はカードを入れ替えるだけだけど、これだとやっぱり電話会社のサービスっていうのが端末レベルまでに行き渡りにくいせいもあってか、細かい部分までのサービスが発展しないんだろうな、という感じがする。

 欧米はこれでいいのかもしれないけど。「しょせん電話じゃーん」の大雑把な感じだし、日本のように街中そこかしこで若者が携帯いじりまくり、の現象はほぼ無い。携帯に縛られてる感じは薄い。

2007-04-08

サンキャ




 昨日までフランスブルターニュ地方にある海沿いの街、Saint cast(サン・キャ)というところに1週間自分の先生の講習会に行っていました。

 予想していたとおり地獄でした。


 一日2回それぞれ1時間のレッスンに加えて、身体と楽器のための授業2時間、それをほぼ1週間毎日です。
そして同居の友人男2人たちはまったく料理というものをしないため、1週間缶詰レトルト生活でうんざり。

 めっちゃくちゃ海がきれいなリゾート地なんだけど全然リゾート地にいたという記憶がない。
こんなスケジュールで練習する時間すらないのに、言われたことがちょっとでも出来てないと猛烈な説教でしごかれる。
 しかも同居のやつらのフランス語がナゼか全然聞き取れなくて(かなり若者言葉っぽい)完全に俺は一人の世界に入り込み、没念とした感じでおって、知恵遅れ扱いされながら、西洋人の生活リズムに振り回されまくって強烈なストレスの蓄積に性根尽き果てたという感じで。それでも毎晩一緒に呑みに出かけ、毎回ベロベロで2時3時に寝る、みたいな生活だったんで体力的にもかなりキた。

 まあ愚痴ればキリがないんだけど。

 ほんとキツかったっす。


 しかしながらミッカにかなり集中してとりくむことができた。
講習開始2日目ぐらいにいきなりファイナルコンサートで弾け、とか言われて、まさにミッカ講習となり、それなりに熱い講習にもなった。

 最後のレッスンの前の日、「今日はもう見てやらないから、明日のレッスンで私が言った事全部できていなかったら殺す」と言われてしゃがりきでさらい、最後のレッスンでは一応音楽面では認めてもらえて、ご褒美と称して先生が人生で一番好きな曲、というのの譜面を与えてもらいました。

 この光景は夕暮れ時だったのもあってさながら剣士の師匠が弟子についに皆伝を認めて伝家の宝刀を手渡す瞬間のように見えて、一人であとで勝手に浸ったりしていました。


 ともあれキつかった・・2年前に行ったときも半年分の精神力と体力を奪われたようだったけど、今回もキつかった。

 帰りは、ブラジリアンのブレンダという打楽器の女の子と一緒になって、パリまで一緒に帰ってきた。
この人がまたかなり個性的で、話し方とかしぐさがまるで羽衣の中を常に舞っているかのように、ひたすら漂った印象的な人でした。薬でもやっているんじゃないかというぐらい。

 でも音楽的な話やどういう音楽をやっていきたいかっていう話でかなり意気投合だった。
もう勉強とかウンザリだよね、とか、めちゃくちゃなことやって前衛、とかもうたくさんだよね、とか、いろいろ話しながら帰ってきた。
 いつかなにかで再会できたらいいなとか思ってる。


 

2007-03-28

雑談

 今日はエマニュエル・バッハのシンフォニーの合わせがあるはずだったんだけど、トップを弾いてくれるバロックヴァイオリンの先生が来ず、合わせ中止。予算の問題で合わせ削減されたらしいです。連絡しろよ・・

 ということで5月9日まで合わせ無し。

 この先生、パリの高等音楽院のバロックヴァイオリンの教授で、フランス系の古楽界ではかなりスーパースターな方。でもうさぎっぽくてファニーで良い感じです。

 ヴァイオリニストの良いバージョンの人って、だいたい享楽的でいつもめちゃくちゃ明るい人が多い気がする。
楽器がそういう楽器だからね。良い側面が出るとこういう感じ


 で、合わせがなくなったんでスーパーへ行って食材を買い込んで、うろうろしていたらキレイに満開を迎えた桜が!!
こんなところで満開のお花見を出来るとは思っていなかった。これで今年はお花見ができた!!inリエージュ


 


こないだ行った演奏旅行の帰り道、サービスエリアでゲームを見つけたロシア人のコントラバスのおっちゃんが、急に興奮し出してゲームコーナーの銃を構え、撮影大会。↓



本人超本気です。
で、このあと俺がとった写真を欲しがって、
「オクッテオクッテ!」
「ブルートーゥースブルートゥース!!!」
「ジュシンジュシン!!」

とかってものすごい勢いで俺の携帯を取り上げる。
で送ってあげたら大満足。
「サンドイッチいるか?」
と優しく心使ってくれました。。

この人去年も本番のとくに楽屋に子供のためのお土産の音が鳴るガンのオモチャ買ってきて、
楽屋で鳴らしまくってスゲー楽しそうにしてたんだけど・・

いいなー。こういうロシア人。
学生時代に覚えたロシア語でちょっと話したりした。

やはりいまだにロシアは好きです。
ロシア語も好き。


最近分かったことは、欧米の気取りがどうがんばっても俺には合わないんだなということ。
もとから合わせるつもりもなかったけど、気が付くとついつい合わせてしまってる。

マクドナルドかクイックが食いたい・・
突然のファストフード欲。

今日は休みなんでこの良い天気のもとゆっくり休みマース

2007-03-19

土日干

 
 選集土曜日、クリストフの教えているアカデミーの演奏会で尺八を吹く。
Saint-Hubert(サンチュベール)というかなり田舎の教会で古典本曲「山越」を吹きました。

 教会と尺八、そうとう浮くだろうか・・と思っていたんだけど、かなり意外なことに恐ろしく空気がマッチ。時空感覚がかなりピッタリ来ていました。不思議だね。恐らく、瞑想的な空気感が合っていたんだろうと思うけど。

 というわけでけっこう成功でした。あんな田舎に日本人が来るだけでも珍しいだろうにプラス尺八でかなり珍妙だったろうと思う。

 でもきれいな街でレストランというレストランはどこも新しくてオシャレでキレイで落ち着いている。
鉄道すら入っていない街だからか、常にひっそりとした感じでした。


 終わってから彼の別荘に行って1時過ぎまでけっこう語り合って、「明日は俺はやく帰るよ」といって寝たにもかかわらず起きたら11時!!

 うわ、とか思って下に下りていくと子供たちは朝食食べ終え、俺の起きるのを待っててくれたクリストフだけが食わずに朝食の準備。えらい怒られました。


 そんな感じで駅まで送ってもらって電車で1時間リエージュまで舞い戻った日曜日、家で一休みしてこんどはブリュッセルのアルスムジカで室内楽の先生が指揮をする「月に憑かれたピエロ」を聴きに電車でGO。

 演奏はシャペル・ムジカル・ドゥ・ライン・エリザベートというエリザベート王妃設立のベルギーのエリート学生たちによるもの。チェロは知り合い。

 ブリュッセル着いて会場のボザールへ向かい、チケットインフォに行くと、出ました売り切れ宣言。
おいおい、俺はクタクタな体を押してリエージュからはるばる電車でこのために来たんだぜ、といっても苦笑いのインフォメーションおじさん、「残念なんですがぁ・・こちらとしましてももう持ち合わせがありませんで・・」と高島政信風に断るばかり。

 絶対なんとかなるだろうと思って入り口付近に待機していたら友達登場。
「チケットないの?!わかった、出演者のトモコに聞いてみてあげる」
電話・・
「出ないわね・・しょうがない、来て!」

無理やり入り口に向かう二人。
モ切りのお姉さん
「そちらの方の分のチケットは・・?」
ダメだろう、
と思っていると

友「彼は譜めくりやるはずになってるんですよ」
俺:え?・・

モ切り
「あら、そういうことなのね どうぞー」

すげー機転・・


によって、奇跡的に忍びこんでしまいました。



 んで、演奏は、かなり素晴らしかったです。歌の方とピアノの方が日本人でしたが、頑張ってました。

自分の今やっているシェーンベルクのコンチェルトにも、かなり良いインスピレーションを与えてくれた・・

そして、普通にこの曲はかなり良い曲だな、ということにも気が付きました。これは生で見ないと絶対に分からないと思うけど。

 ドイツ語の持つ美しさってのは、かなり精妙な感じ。憧れるねえ。フランス語もいいとしても、ドイツ語も話せるようになりたいと思うものです。


 そんなドイツ語の精妙な抑揚に思う存分支配されたシェーンベルクの音楽を、もう一度頭の中でリフレッシュさせて取り組もうかな、と思った日でした。

2007-03-16

死ねアカデミズム

 今年はブリュッセルのアルスムジカに足繁く通う予定だったのに、結局忙し+精神的肉体的疲労で一度も行けず・・今のところ。

 そんな今日はFlageyでアルディッティの弾くシャリーノの新作とか望月みさとさんの曲とかあったんだけど、疲労といろんな準備でPass。で昨日はアンサンブルモデルンのライヒトリプルカルテットとかアダムスとかあったんだけどこれも行けず。ライヒイヴニングは見事に全日完売であったのと多忙も重なり行けずに完。

 今日室内楽の試演会でウェーベルンの4つの小品を弾いたんだけどかなり適当だった。。適当な演奏だったことは自戒するんだけど。

聴衆冷てー。ヴァイオリンの学生とか、「あんなの分かんないんだからナニ弾いたっていいんじゃん」とか言い、アシスタントのヴァイオリンのヒトもかなり冷たい。俺の顔すら見ない。完全無視。

 この世で一番キライなものの一つはヴァイオリニストです。といっても過言じゃないです。
なかには人間的にもいいヴァイオリニストはいるけど、100人いたら80人のヴァイオリニストは人格破綻気味っつってもいいんじゃないかね。


 冷徹な。退屈な。神経質な。偏狭な。高慢な。そんなヴァイオリニストにばかり会いすぎてもう正直いやだね。もし生まれ変わるならぜひチェロを学びたい。


 そんなヴァイオリニストが聴いている中で演奏するのももうたくさんだ。
どうせなに弾いたってくだらないところしか聞いてないし。

チューバの、ギターの、ドラムの世界に入ってたらもっと融和なんじゃないかとか思うけど、でも結局それはアカデミズムの問題かもしれない。


 くたばれアカデミズム。アカデミズムがなにを産み出す!!

 俺はもうこの2年学校で勉強したら学校とはおさらばだ。少なくとも退屈なヴァイオリニストがうじゃうじゃする寒気のするような「学校」へは二度と顔向けしたくない。

2007-03-14

所感

 これからの時代は、家庭裏庭菜園、自給自足の時代に突入していくと思ってるんですが、音楽も自分で自分が豊かな生活を送るのに良いな、と思える曲を、自分で見つけて、もしくは自分で作って楽しむ時代にどんどんなってっていいと思います。


 なので、普段なにげなくくつろぐ時間に流す曲が、ナンカロウの自動ピアノのための練習曲のアンサンブル編曲版だったりとかしていいと思う。ゆったりとしたタイプのほうの。


 要するに社会通念に圧制された既製品ばかりに生活を依存させないで、なんでもいちど社会通念をはずしてフリーな目でものをながめて、そこで一番自分に必要なものをとっていくやり方、というか。


 たとえば世界が核戦争とかになって、全人類の3分の2が地球上から消え去り、経済なんていうものはあってないようなカスになって、政治も産業ももはや個人にはなんの影響もなさないような世界になったら、いよいよ人間はほんとに孤独になって、偉かったはずの大学教授もただのヒト、すごかったはずの作曲家もただの中年のおじさん、がみんな全裸な状態で地上に残されたとしたら、それまで一番かがやいて見えたものの価値観が一気に160度ぐらい覆る。

 一番眩しかったのは、あの憧れの大学の先生でもなく、偉いコンサートマスターの地位でもなく、すごい芸能人でもない、庭にたった一厘咲いているタンポポかもしれない・・いや、ただのシダの葉にすぎないかもしれない。


 今は見えないかもしれないこの社会通念のフィルターに目が曇らされていると、自分の一番大事なものは庭のタンポポ、なんていう人はだいたい「世界が小さい」とか「取るに足らないローカルなやつ」、という目で見られるかもしれないけど、幻想たる社会通念が一つでも間違って転んでしまいでもすれば、最後まで豊かな生活を送れるのはタンポポ組なはずだろうなと思う。



 ローカルでなぜいけない?

 音楽のそもそもの意味って?

 そういう良く分からない問とかいうのは、完全に世界の産業が破滅したときに、ものすごいクリアになって見えてくるんだろうな。


 裏庭で作ったキャベツ。裏庭で育てた合鴨。裏庭で育てたタバコの葉。自分でこしらえた夕方のくつろぎ時間のための曲。それで自分たちが満ち足りるだけの生活。音楽にそれ以上の意味があるんだろうか。


 「日本の未来は、明るい破滅」という司馬遼太郎の言葉はいつまでも心に響きますが、スローライフとか余裕なことを言っている暇もなく、現実としてスローライフがやってくるとしたら、それを受け入れるまで。


 日本は世界にさきがけて「社会」を猛烈に発展させたから、こんどは世界にさきがけて意味ある崩壊を迎えたらいいなあ。


 東京の大地震も近いだろうし、いろいろと、破滅要因は準備されてる感じがします。


 いつまでも つづくと思うな この生活

2007-03-09

メモ

 オケの練習のあいまに。。

 明日ブリュッセルのモネ劇場で本番です。

 いやーー・・オケってやっぱ楽しい・・?!
半分キツイ、半分楽しい、の感じで総体的に楽しい。でももう5日も同じ曲練習しててさすがに飽きてきた。

 さらにこれといってやりがいのある曲もなく。

 プロコフィエフのピアノコンチェルト1番とマーラーの交響曲6番の3楽章(?)が一番心に残ります。


 

2007-03-06

ゼロ地点から

 なにか、特になにが不調というわけでも、悩みがあるわけでもないんだけど、イマイチすっきりとアゲアゲにならない今日このごろです。

 おもしろいと思えるはずのものがあんまり面白く思えなかったり。けっこうどうでもいいモードでなにやっても夢中にならない。


 でも意外とそういうときのほうが気持ちが安定しているような気もし、割とベーシックラインなのではないかという感じもする。


 難しいことを考える気力もおきず。

 とりあえず今一番やりたいことといえば温泉とか行きてえ。


 しかし今みたいにこうやってヨーロッパでオケをやったり、室内楽をやったりしているのはなんだかんだいって日本に帰ったらけっこう輝かしい青春の一ページに残るのだろうなあ、とか思ったりしている。



 今年の3月はあったかいわ・・去年の3月はブルブルに震えていたのに、今日雨が降った地面からしてくるにおいは、もう完全に春の土の匂いだった。

2007-03-04

展望

 最近はなんか文章が暗くてイマイチすっきりしない感じがします。

 生活もなんかいまいちすっきりしない感じで。

 だいたい毎年2月あたりは一番精神的にドヨンと垂れ込める時期なんだけど、そういえばもう3月だった・・


 疲れているのかな。恐らくは。

 ステファン・ウォルプという人の室内楽曲に取り組みはじめました。
よく知らなくて、調べてみたらドイツの半近代現代作曲家ですね。
作風は、まだスコアを見せてもらってないんだけど、音的にはかなりユン・イサンぽい。

 ピアノ、B管クラ、バスクラ、ヴァイオリン、の曲。


 今日はクリストフの家でベートーヴェンの合わせをした後、こんどやる予定になっている日本伝統音楽の講義の企画の相談。

 講義は5月の予定なんだけど、プレゼンテーション的に今月の17日に尺八を演奏することになりました。
しかも、教会、っていうか、聖堂!・・

 彼の提案で、オルガンのある場所、つまり聴衆からすると後ろ上方のバルコニーになっているところ、で演奏することになりそうです。すごいね。このシチュエーション。虚無僧もびっくりだよ。


 で、今日もいろいろと日本音楽の歴史とかについて説明してきた。
自然、西洋音楽と対比させながら説明しないとならないんだけど、そうするとけっこうこっちも新鮮に日本音楽史が見えてきて面白い。

 琵琶法師だとか虚無僧を、中世ヨーロッパの吟遊詩人とかトゥルヴァドゥーラと重ねて説明したりとか、まあもちろん無理もあるんですけど。

それぞれの大衆音楽と宗教音楽のあり方とか、グレゴリオ聖歌と声明とか・・

 なんで西洋楽器は発展したのに日本の伝統楽器はむしろそぎ落とす方向に向かったか・・などなど、二人で話しながらもお互い発見の連続。

 
 シルクロードの東の果てで営まれた日本の音楽と、西の果てで発展した西洋音楽を対比させながら講義するというのは、かなり面白そうだと思ってます。


 これからも5月の講義に向けてお互い資料収集しながらやってく予定です。ネットは便利・・

2007-03-03

土人の蛮行

 昨日は友達に誕生日を祝ってもらってしまった。

 ほんとにね。祝ってくれる人がいるっていうのって、なんていうか泣きそうにありがたい。
 家族は電話してきてくれるし。

 友達は料理も全部つくってくれ、ケーキも揃えてくれ・・

 こういう周りの存在のありがたみを糧に、まだ辛いことも乗り越えていこうと思える所存です。


 そして、ついに始まったオーケストラ。
今週1週間朝から晩まで練習漬けで、土曜にブリュッセルのモネ劇場で、来週リエージュで、再来週フランスのルーアンに演奏しに行きます。

 とても大雑把な人たちがたくさんいるんでけっこう辛いんですが。

 それよりも
弓順とか問題点が出るとすぐにみんな騒然としだして収集付かない感じで荒れだすのが、あまりに毎回毎回なんでイライラ通り越して可愛くなってくるような。

 なんか昔のフランドル派とかの絵画に出てくるような農民が我先にと騒動の渦中に頭をもたげ出してるみたいな光景。
西洋にも「農民」ぽい風情ってあるんだよね。

 ニホンの農民っぽい風情の代表格といえば、個人的には迷わず「宴会」「新歓」とかの飲み会の類だと思うんですけど、西洋のそれはまたぜんぜん違って面白い。

 どちらにしても「騒」とか「駄」って感じが似会うのは共通なんだけど。

 私は、けっこうこの農民ぽさは好きです。

 ニホンの場合の農民ぽさというとすぐ思いつくのは「車座」とか「いろり」とか。
黒澤映画に出てくる農民の味わいは最高だなあ。

「おうおうおう!!おめぇんとこの土塀とんでもねえ安普請だなおい!」
「当人が良いっつてんだからそれでいいじゃねえか!」
とか

俺もこんなこと書いてないで、農民の中に入らないとだめなんだよね。なにを貴族ぶってんだよ、と。


結局先住民族をみて「土人の蛮行」とか言って見ているうちはまだまだケツが青い。

2007-02-28

カタストロフィー

 古楽の発表会が今日終わったけど、さっぱり激ヤバでした。

 アンサンブルカタストロフ・・(←これけっこういい響きだな・・とか・・)
俺の先生もすっげーな・・って言ってたけど。セ テ ニュル 

 でもまあ、曲に触れられたので良かったとしよう、と。


 今日はレッスンもあったが。

 相変わらずもう辟易するぐらい俺のことをしょうもない適当男呼ばわりで怒鳴るんだけど、なんかもうやっとどう対応すれば良いか分かってきた。それは、対応しないことだ・・と・・

 そうだったのか・・俺はそういえば適当男だったな・・と・・先生はこれを気づかせる目的だったのか・・と。
 思い返してみれば、俺の小さいころなんて姉ちゃんからも親からもだいたいいつも「集中力もなくてやることメチャクチャでしょうもないやつ」ってレッテル貼られて生きてたけど、そういえば俺は集中力も無いやることもメチャクチャなやつだったなと思い出し、「そういえばそうじゃん」とか思った。

 背伸びしてたから先生からそう言われるの納得できなかったんだなあ・・と思いましたけど、先生にしてみりゃ当然なこと言ってただけだったのか、みたいな。


 あと本番でなぜか力が入る理由も分かった。まさに背伸びしてたからね。
だって、周りが外人ばっかりで背が高いから、無意識に背伸びして腰に余計な力が入っていた。笑えるけどね、ほんとにそうだった。
 「そういえば、おれちっちゃいじゃん」って思ったらなんか音の出方がぜんぜん違うというね。
 

 腰に圧力かかると、上体全てにプレッシャーかかるんですよ。
ってのも、腕って実は腰の、まさに骨盤のすぐ上のところにある筋肉から始まっているんで、そこが張り詰めると腕全体も動きが制限されます。で、連鎖して呼吸器も圧迫されるんで、息も浅くなります。総じて、上半身と下半身が分断された状態になって、音楽に深みとか重みとかリズム感とか大きさが出せなくなることになります。

 さらに、首やなんかも膠着するんで、頚椎とか脊椎の神経も圧迫されて麻痺するので注意力も落ちます。それが因果で、突発的なミスも起こりやすくなるし、それに対する対応も緩慢になる。大事故の元です。

 そうなると音も聴かなくなるしね。まさに終わりっす。


 これには聴覚神経とかの問題も絡んでくるけど、聴覚と身体全体と精神は全てきっても切れないまさに同時な存在なので、つまりどれか一つを語れば全てを同時に語ったことになるんだけど。

 ともあれ自分をでかく見せようとすると失敗しやす。ってことにまた一つ気がつきやしたね。


 誰かに夜ご飯を作っていただきたい

2007-02-25

団地ノスタルジー

 一週間連休の最後の今日は、疲れを癒すために一日家で。

 としたいところだったけど、結局部屋の掃除やら練習やらでけっこうクタクタに・・
まずいなあ・・来月からけっこう忙しいのだが。

 海苔打さんが来月来るのでいい加減部屋を掃除しました。
俺は一切毛類が落ちないはずなんだけど、なぜかけっこうあんな毛やこんな毛がいたるところに落ちていることにショック・・
誰のものなのかは、考えなくても分かるんですけど・・
やっぱトイレ共同とかシャワー共同はこういうとき気持ちが悪いわ。変な病気とか移りそうだし。

 ということで綿密に掃除。安心してください海苔打さん、ってここ読んでないと思うけどね。


 昨日アントワープぶらり途中下車のたびをしてきたんだけど、カルチャーショックだったなあ。
なんでおれ、こんな廃工業地帯に住んでんだろ、みたいな。

 でもこれは、今の俺にとってはこれでいいかな、と。

 人のなるべくいない、余計なもののなるべくない場所で、ひたすら修行を積むにはうってつけ。
我ながら良い場所をみつけたものだ。


 いまの私は、ウルトラマンレオのオオトリ・ゲンの状況。
ダンという過酷な師匠のもので、ひたすら修行を積む、みたいな。

 レオの名セリフ

http://www.youtube.com/watch?v=MXAhYDkrjmc&NR
(くぁかみ兄さんから教えてもらいました)

ゲン「ダメだ!!おれにはできない!!おれにはできない!!できないできないできない!!!!」

ダン「その顔はなんだその目はなんだその涙はなんだ!!!」

まあ、そんな感じで劇画調な70年代ワールドが展開していく。


70年代の日本を見に行ってみたい。
60年代ならなお良し。

団地が新鮮だった時代。
まだ子供たちが短パンで日が暮れるまで土手で遊びまわっていた時代。

そんな時代の、夕暮れ時、遊びつかれた自転車、土手の夕日、通りかかった団地の台所からする夕飯の用意の匂い、包丁の音、、お母さん・・土管・・・巨人軍・・・・・

なんともいえないノスタルジーです。


いやー、明日から大変だ!!

2007-02-23

システム所感





 今日はクリストフ氏に連れられて午前中リエージュ観光でした笑

普通には入れない聖堂へ連れて行ってもらい。

彼は前ここでオルガン弾くバイトしていたらしいのでそのツテで。


 
「彼はもうすぐ日本に帰るからこの教会を紹介してあげるんだよ」

と、顔を出してきた牧師に俺を紹介してくれたの聴いて、そうか、もうすぐ帰るのか・・
と妙にこの街がいとおしくなってしまった・・

 この教会の一番上の部分からは、リエージュの街が素晴らしく一望できる。




観光客も誰も来ない地元のごく限られた人たちの場所からみるこの展望はそもそも非常にありがたくて、なんかいつもと街の印象も違ってみえた。

 そのあと彼の家でチッサイ子達と昼飯をゴチソウになって、家に帰ってからメディアテックにCDを返しにいき。

 新たに借りてきた。


 クセナキス3枚と

 ナンカロウ

 フェルドマン2枚

 ライヒ

って書くと魚屋で切り身買ってきたみたいだけど。
 初めの一枚クセナキスの室内楽のアルバムをちょっと聴いてみて、
さっそくまた名曲を発見。

 チェンバロと打楽器のためのOophaa(1989)

 最高です。
 これは完璧にポップと言って良いんじゃないでしょうか。土俗ポップと。
チェンバロとかときおり8ビットゲーム機の気楽な調べに聴こえる・・打楽器の妖怪キャラクターも完全。


 チェンバロって楽器は、個人的にかなり偏った権威的な響きに聴こえて、それで演奏されるバッハなんてほんとに西洋趣味の鼻につくエラさを感じるんだけど、そんなオトナな楽器オーラをなんの意にも介さず自然体にランデヴーしているクセナキスの姿勢に感動。

 そんな姿勢の前には、気取った貴婦人も犬のクソを踏んで乞食に一発ヤられちゃってるぐらい滑稽な愛着をかもしだしているチェンバロの姿。

 前にも書いたように、クセナキスは独自の表現へのプロセス、をある時期に徹底して完成させたことで、そのしっかりと塗り固められたまさしく土俵の上で、あとは思うがままに音楽を表出させていったけど、個人的にはいま演奏、とくに即興演奏に対する一つのシステムに興味がある。


 いや、最終的にはシステムに依らない次元にあるべきだけど、その突破口としてやっぱり一度知ってみる必要があるんじゃないかと思う。

 普通の人が即興やれ、と言われたって、いったいなんの事かさっぱりわからないし、だいたい音楽家でさえいきなり即興やれ、というあまりにも漠然としすぎた提案ってのは逆に視野を狭くする。


 ものごとって、徹底的に還元された実質があることによって、シンプルさを持って、逆にいくらでもマキシマムへ向かっていくことができるはず。

 例えばヴァイオリンは「演奏している」、という抽象的な事実の中に、「弓が弦をこすり、弦が振動する」という決定的な事実があることによって、一番初めのインパクトが生まれるわけで、その単純な事実によって常にまわりの物事が自由気ままに掴まれている。

 そのシンプルな実質があることで、ものごとは対象にもなれるし、主観、客観にもなれるわけで、そこから大きな発展が期待できる余地が生まれる

この「余地が生まれる」ってところが大事で、決して「発展」そのものを目指さないほうがいい。

余地を待つ。余地は勝手に展開していくし、展開していかないこともある。


そういう「対象」になりえる実質を迎えていないと、物事って一貫して自滅に向かっていく傾向にあるような気がします。

親戚の結婚式だとか、宗教的な儀式、村の祭りっていう対象があってこそ集団的な音楽は付いてまわったわけで、意味も無く、聴く人もいない部屋の中でただただ自分一人で弾き続ける音楽の歴史というのはありえなかった。


 音楽っていうものがもっと今の普通の人たちにとって当然なものになるためには、やっぱりこの、現代の意識とシステムに張り巡らされた認識の網目をくぐり抜ける必要がある訳で、そのためには同じくシステムを使って乗り越えるのも一つかなと今は思う。


毒には毒をもって解毒する、みたいな。

2007-02-22

グレの歌

 立て続けに音楽の話になるんだけど、シェーンベルクの「グレの歌」を聴いている。

 あの、超盛大なオケ付きの音楽劇のような曲。めちゃくちゃにロマン派です。

 今ヴァイオリンコンチェルトの2楽章に取り組んでいて、どうしても理解できないんですわ。あの音楽が。で、グレの歌を聴いてみようと思ったんだけど。

 ほんとに美しい音楽ですねえ・・・なんといっていいのか。単純に美しい。「ポワッっと恋してしまいそうになる音楽」っていうのが近いかね。特に前半。


 ゾフィさんに送ってもらってもう一度聴いてみたクセナキスのイオールコス・・・

 彼はオケの曲でこれを越えたものに未だ出会っていないと言っていたけど、うなずける・・

 実はこの作品は前から超代表作として知ってはいたんだけど、最初の方だけきいて、割と分かりにくいタイプかな?・・と思ってそれほど入れ込んで聴いてなかった。

 ところがです、すごいですこれが・・。特に3分の1過ぎたあたりから・・
もうこの曲には構成とか曲としてどうまとめようとかいう小手先の思考すら伺えない。

 ともかく、身体が崩壊するような感覚に襲われる曲です。
死ぬ瞬間にさ、悲しみだとか、楽しさだとか、楽観だとか悲観だとか、苦痛と悦楽が、全ての境目を失って一気に感覚になだれ込んでくるとしたら、こういう感覚だと思いますよ。

 しかもこれ、踊れる・・


 前回の投稿で、彼の自我の意識についてちょっと書いたけど、ここの↓サイトに乗っている彼のインタビューに実際彼がそのことを語ってます。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/folder/1426615.html

 なにかが創造されるというときの、「意識」の状態。「尻のアナを開く必要がある(笑)」と言ってます(笑

 そのあとに書いてあった、テクノロジー、という存在についての見解もとても賛同できるものでした。
地球の自転、太陽のエネルギー、そういうものと人間の存在を区別しない考えはしごくまっとうだと思うんだけどなかなかそういうふうに考えてる人ってすくない。

2007-02-20

オレステイア





最近クセナキスのオレステイアにハマってる。

音楽劇、オレステイアです。


 誰だっけ、古代ギリシャの劇作家、アイスキュロスの古代劇オレイステイアに、20世紀のギリシャ狂超人作曲家クセナキスが音楽をつけたものなんですが。


 ともかく、ものすごいっす。


 現代音楽とかそういう領域を完全に飛び出してて、一個のギリシャDNAが現代に噴出してしまったみたいな感じ。一人の作曲家が作った音楽ではなくて、完全に”群集の動物”としての人間からあふれ出てきた巨大な音楽の様相を呈している。


 これ、やっぱり彼の作曲のしかたが数理計算、確率計算からなされてるからなのか、といまさら気づいた。彼のこの作曲の仕方って、このためにあったのか・・と今更やっと理解できた感じです。


 つまり、クセナキスは「一人の人間が作曲をする」という行為の限界を越えて、人間本来が古来から行ってきた音楽、つまり集団として決起したときに起こる動物的現象としての音楽を再び成しえるために、数学というある意味で神のツールを使って、音楽を現象学的に再現してしまった。






 だから、超強烈なんです。大量の人間が集まったときの音楽が。これは一人の人間が頭で考えて成しえる音じゃない。

 しかもそれが偶然毎回違うふうにできる即興じゃなくてすべて譜面に設計図として書き記されてるところが説得力も持っていて・・

 しかしすごい割り切りだなと思う。物体の、偶然に起こる現象の瞬間を、一枚の写真に収めるように全て数字で一次元に焼き付けてしまうわけだから。 

 例えるなら、水面に水滴が落ちて跳ね返った雫の芸術的な形を、数理計算でもって計算して完全に一オブジェとして定型化してしまったような事ですよね。


 この全く自我を作曲から排して、”数字”という超現実に任せたような向き合い方も、ある種の達観みたいにも思うんですけど、こういう理論追求を繰り返しまくった彼が晩年一種精神異常だかアルツハイマーみたいになって、とにかくなんでも素晴らしい!と言いまくっていたのも、実は解脱だったんじゃないかとか、ちょっと思う。以下の引用により。



晩年逝去する直前に、京都賞受賞に際して語った最近の心境についてのコメント


 新しい理論を持たない現在の心境は、大いなる自由の境地であり、新たな独創性の始まりであること


ともあれ、晩年の曲もヤバイです。 

2007-02-19

循環回路に没す

 休日を楽しんでます。といいたいところですけど、ひたすら休むに徹し。

 自転車をこっちに来たときに買おうかどうかそうとう迷ったんだけど、やっぱ買っておけばよかったかなあ。自転車で川沿いにどこまで行けるかやってみたかったです。一応、オランダのロッテルダムまで行けるはずです。それから北海。


 禅問答に、「両手の鳴る音は知る、では片手の鳴る音とはいかに?」という”隻手の音声”という公案がありますが、答えられますかね?

 ちょっと考えたけどね、ぜったいわかんねえ。
鳴る、も鳴らない、も同じなんだな、とか
鳴ってる、とか鳴らないと自分で区別してるだけだ、とか
心の中で隻手の音声が鳴ってる・・とか、
どれも誰でも思いつきそうなことで。

 とりあえず今は、「片手の鳴る音は知らない、と知る」ぐらいの程度でしか答えられないかなと。

 要するにこれは、人間の執着に対しての挑戦的な問いなんですね。そして、この問いに対して苦心に苦心を重ねた自分が瓦解した瞬間が、この公案の答えというか。

 そういうことって多いっす。


 つまりこういうことを書いている時点で、全然修行が足りないわけです。そして修行が足りないということを書いている時点でも、修行が足りないわけです。そして修行が足りないと書いていることが修行が足りない、と書いている時点でも、修行が足りないわけです。そして修行が足りないと書いていることが修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で、修行が足りないわけです。そして修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りないわけです。そして修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で、修行が足りないわけd

2007-02-18

連休の初日






連休の初日・・

もう昼間からよっぱらって・・

いま夕方4時ですけど、なんだかよくわからないけどありとあらゆる酒を飲まされてすげえ良い気分です。


今日午前中、Concert Aperitifに出演していた盟友クリストフのブラームスを聴いて、そのまま彼の息子マティアスの3歳の誕生日とマリーの5歳のパーティーにお邪魔させてもらっていました。


みんな親戚なのに俺だけ里のわからない異人が混ざって申し訳なかったんだけど・・すごい歓迎してもらって・・料理、酒、デザートをたらふく食ってきた。

 クリストフの演奏はかなり素晴らしかったと思います。息を飲むほどに音楽に入り込んでいたし、モーツァルトのファンタジーもみごとにモーツァルトを生きていて気の聞いたユーモアに惹きこまれました。クラシックであそこまで音楽に没頭した演奏できる人っていうのはなかなか出会えないと思うなあ。

 演奏前、やたら緊張した彼が「暗譜か譜面ありかどっちがいい」と言ってかなり迷ってたので暗譜で決まり、と押してあげたんだけど、暗譜で大正解だったと思うわ。


 今週一週間ある休みは、アントワープに行ってこようかなと思っています。


 実は留学してきてからアントワープへは一度も行ったことがないし、やっぱりベルギーといえばアントワープなんじゃないでしょうか。

あそこはオランダ語と英語だよね。フランス語はかなりきついかなと。


 王立美術館にも行きたい。


 フランス語でアントワープはアンヴェルスといいます。
 オランダ語でリエージュはルイクといいます。

ベルギーは完全にオランダ語とフランス語で分裂しています。

同じベルギー人なのに、片言で話し合っていたり、

この感覚は、日本人の自分にはかなり理解できません。


オランダ語圏のベルギー人と、フランス語圏のベルギー人はお互い違ったベルギーのアイデンティティを持ってる感じがします。

かたや、IT技術国際立国としてのベルギー、かたや、美食と古典文化としてのベルジック、全く相反する誇りを一つの国のそれぞれのパートが担っているようで、とても不思議。


 まあ、そんな感じですが、今日はもう寝ようかな・・





2007-02-17

ひろみ始動

 ということで、いままで使っていたブログ本文に突如広告が介入するようになったので、こちらに引っ越して参りました。

 およそ一年ぶり、Bloggerへの復帰です。


 今日は、なんにもない、いい一日だった。byボクくん

洗濯して、昼寝して・・


 あんまりにもなんにもなかったので写真でも載せよう。
















ファトゥマ・ジャバ









ギリシャ、サントリーニ島イアからの眺め
去年行ったときのです。
旅行記続けないとなあ