2007-02-28

カタストロフィー

 古楽の発表会が今日終わったけど、さっぱり激ヤバでした。

 アンサンブルカタストロフ・・(←これけっこういい響きだな・・とか・・)
俺の先生もすっげーな・・って言ってたけど。セ テ ニュル 

 でもまあ、曲に触れられたので良かったとしよう、と。


 今日はレッスンもあったが。

 相変わらずもう辟易するぐらい俺のことをしょうもない適当男呼ばわりで怒鳴るんだけど、なんかもうやっとどう対応すれば良いか分かってきた。それは、対応しないことだ・・と・・

 そうだったのか・・俺はそういえば適当男だったな・・と・・先生はこれを気づかせる目的だったのか・・と。
 思い返してみれば、俺の小さいころなんて姉ちゃんからも親からもだいたいいつも「集中力もなくてやることメチャクチャでしょうもないやつ」ってレッテル貼られて生きてたけど、そういえば俺は集中力も無いやることもメチャクチャなやつだったなと思い出し、「そういえばそうじゃん」とか思った。

 背伸びしてたから先生からそう言われるの納得できなかったんだなあ・・と思いましたけど、先生にしてみりゃ当然なこと言ってただけだったのか、みたいな。


 あと本番でなぜか力が入る理由も分かった。まさに背伸びしてたからね。
だって、周りが外人ばっかりで背が高いから、無意識に背伸びして腰に余計な力が入っていた。笑えるけどね、ほんとにそうだった。
 「そういえば、おれちっちゃいじゃん」って思ったらなんか音の出方がぜんぜん違うというね。
 

 腰に圧力かかると、上体全てにプレッシャーかかるんですよ。
ってのも、腕って実は腰の、まさに骨盤のすぐ上のところにある筋肉から始まっているんで、そこが張り詰めると腕全体も動きが制限されます。で、連鎖して呼吸器も圧迫されるんで、息も浅くなります。総じて、上半身と下半身が分断された状態になって、音楽に深みとか重みとかリズム感とか大きさが出せなくなることになります。

 さらに、首やなんかも膠着するんで、頚椎とか脊椎の神経も圧迫されて麻痺するので注意力も落ちます。それが因果で、突発的なミスも起こりやすくなるし、それに対する対応も緩慢になる。大事故の元です。

 そうなると音も聴かなくなるしね。まさに終わりっす。


 これには聴覚神経とかの問題も絡んでくるけど、聴覚と身体全体と精神は全てきっても切れないまさに同時な存在なので、つまりどれか一つを語れば全てを同時に語ったことになるんだけど。

 ともあれ自分をでかく見せようとすると失敗しやす。ってことにまた一つ気がつきやしたね。


 誰かに夜ご飯を作っていただきたい

2007-02-25

団地ノスタルジー

 一週間連休の最後の今日は、疲れを癒すために一日家で。

 としたいところだったけど、結局部屋の掃除やら練習やらでけっこうクタクタに・・
まずいなあ・・来月からけっこう忙しいのだが。

 海苔打さんが来月来るのでいい加減部屋を掃除しました。
俺は一切毛類が落ちないはずなんだけど、なぜかけっこうあんな毛やこんな毛がいたるところに落ちていることにショック・・
誰のものなのかは、考えなくても分かるんですけど・・
やっぱトイレ共同とかシャワー共同はこういうとき気持ちが悪いわ。変な病気とか移りそうだし。

 ということで綿密に掃除。安心してください海苔打さん、ってここ読んでないと思うけどね。


 昨日アントワープぶらり途中下車のたびをしてきたんだけど、カルチャーショックだったなあ。
なんでおれ、こんな廃工業地帯に住んでんだろ、みたいな。

 でもこれは、今の俺にとってはこれでいいかな、と。

 人のなるべくいない、余計なもののなるべくない場所で、ひたすら修行を積むにはうってつけ。
我ながら良い場所をみつけたものだ。


 いまの私は、ウルトラマンレオのオオトリ・ゲンの状況。
ダンという過酷な師匠のもので、ひたすら修行を積む、みたいな。

 レオの名セリフ

http://www.youtube.com/watch?v=MXAhYDkrjmc&NR
(くぁかみ兄さんから教えてもらいました)

ゲン「ダメだ!!おれにはできない!!おれにはできない!!できないできないできない!!!!」

ダン「その顔はなんだその目はなんだその涙はなんだ!!!」

まあ、そんな感じで劇画調な70年代ワールドが展開していく。


70年代の日本を見に行ってみたい。
60年代ならなお良し。

団地が新鮮だった時代。
まだ子供たちが短パンで日が暮れるまで土手で遊びまわっていた時代。

そんな時代の、夕暮れ時、遊びつかれた自転車、土手の夕日、通りかかった団地の台所からする夕飯の用意の匂い、包丁の音、、お母さん・・土管・・・巨人軍・・・・・

なんともいえないノスタルジーです。


いやー、明日から大変だ!!

2007-02-23

システム所感





 今日はクリストフ氏に連れられて午前中リエージュ観光でした笑

普通には入れない聖堂へ連れて行ってもらい。

彼は前ここでオルガン弾くバイトしていたらしいのでそのツテで。


 
「彼はもうすぐ日本に帰るからこの教会を紹介してあげるんだよ」

と、顔を出してきた牧師に俺を紹介してくれたの聴いて、そうか、もうすぐ帰るのか・・
と妙にこの街がいとおしくなってしまった・・

 この教会の一番上の部分からは、リエージュの街が素晴らしく一望できる。




観光客も誰も来ない地元のごく限られた人たちの場所からみるこの展望はそもそも非常にありがたくて、なんかいつもと街の印象も違ってみえた。

 そのあと彼の家でチッサイ子達と昼飯をゴチソウになって、家に帰ってからメディアテックにCDを返しにいき。

 新たに借りてきた。


 クセナキス3枚と

 ナンカロウ

 フェルドマン2枚

 ライヒ

って書くと魚屋で切り身買ってきたみたいだけど。
 初めの一枚クセナキスの室内楽のアルバムをちょっと聴いてみて、
さっそくまた名曲を発見。

 チェンバロと打楽器のためのOophaa(1989)

 最高です。
 これは完璧にポップと言って良いんじゃないでしょうか。土俗ポップと。
チェンバロとかときおり8ビットゲーム機の気楽な調べに聴こえる・・打楽器の妖怪キャラクターも完全。


 チェンバロって楽器は、個人的にかなり偏った権威的な響きに聴こえて、それで演奏されるバッハなんてほんとに西洋趣味の鼻につくエラさを感じるんだけど、そんなオトナな楽器オーラをなんの意にも介さず自然体にランデヴーしているクセナキスの姿勢に感動。

 そんな姿勢の前には、気取った貴婦人も犬のクソを踏んで乞食に一発ヤられちゃってるぐらい滑稽な愛着をかもしだしているチェンバロの姿。

 前にも書いたように、クセナキスは独自の表現へのプロセス、をある時期に徹底して完成させたことで、そのしっかりと塗り固められたまさしく土俵の上で、あとは思うがままに音楽を表出させていったけど、個人的にはいま演奏、とくに即興演奏に対する一つのシステムに興味がある。


 いや、最終的にはシステムに依らない次元にあるべきだけど、その突破口としてやっぱり一度知ってみる必要があるんじゃないかと思う。

 普通の人が即興やれ、と言われたって、いったいなんの事かさっぱりわからないし、だいたい音楽家でさえいきなり即興やれ、というあまりにも漠然としすぎた提案ってのは逆に視野を狭くする。


 ものごとって、徹底的に還元された実質があることによって、シンプルさを持って、逆にいくらでもマキシマムへ向かっていくことができるはず。

 例えばヴァイオリンは「演奏している」、という抽象的な事実の中に、「弓が弦をこすり、弦が振動する」という決定的な事実があることによって、一番初めのインパクトが生まれるわけで、その単純な事実によって常にまわりの物事が自由気ままに掴まれている。

 そのシンプルな実質があることで、ものごとは対象にもなれるし、主観、客観にもなれるわけで、そこから大きな発展が期待できる余地が生まれる

この「余地が生まれる」ってところが大事で、決して「発展」そのものを目指さないほうがいい。

余地を待つ。余地は勝手に展開していくし、展開していかないこともある。


そういう「対象」になりえる実質を迎えていないと、物事って一貫して自滅に向かっていく傾向にあるような気がします。

親戚の結婚式だとか、宗教的な儀式、村の祭りっていう対象があってこそ集団的な音楽は付いてまわったわけで、意味も無く、聴く人もいない部屋の中でただただ自分一人で弾き続ける音楽の歴史というのはありえなかった。


 音楽っていうものがもっと今の普通の人たちにとって当然なものになるためには、やっぱりこの、現代の意識とシステムに張り巡らされた認識の網目をくぐり抜ける必要がある訳で、そのためには同じくシステムを使って乗り越えるのも一つかなと今は思う。


毒には毒をもって解毒する、みたいな。

2007-02-22

グレの歌

 立て続けに音楽の話になるんだけど、シェーンベルクの「グレの歌」を聴いている。

 あの、超盛大なオケ付きの音楽劇のような曲。めちゃくちゃにロマン派です。

 今ヴァイオリンコンチェルトの2楽章に取り組んでいて、どうしても理解できないんですわ。あの音楽が。で、グレの歌を聴いてみようと思ったんだけど。

 ほんとに美しい音楽ですねえ・・・なんといっていいのか。単純に美しい。「ポワッっと恋してしまいそうになる音楽」っていうのが近いかね。特に前半。


 ゾフィさんに送ってもらってもう一度聴いてみたクセナキスのイオールコス・・・

 彼はオケの曲でこれを越えたものに未だ出会っていないと言っていたけど、うなずける・・

 実はこの作品は前から超代表作として知ってはいたんだけど、最初の方だけきいて、割と分かりにくいタイプかな?・・と思ってそれほど入れ込んで聴いてなかった。

 ところがです、すごいですこれが・・。特に3分の1過ぎたあたりから・・
もうこの曲には構成とか曲としてどうまとめようとかいう小手先の思考すら伺えない。

 ともかく、身体が崩壊するような感覚に襲われる曲です。
死ぬ瞬間にさ、悲しみだとか、楽しさだとか、楽観だとか悲観だとか、苦痛と悦楽が、全ての境目を失って一気に感覚になだれ込んでくるとしたら、こういう感覚だと思いますよ。

 しかもこれ、踊れる・・


 前回の投稿で、彼の自我の意識についてちょっと書いたけど、ここの↓サイトに乗っている彼のインタビューに実際彼がそのことを語ってます。
http://blogs.yahoo.co.jp/tdhdf661/folder/1426615.html

 なにかが創造されるというときの、「意識」の状態。「尻のアナを開く必要がある(笑)」と言ってます(笑

 そのあとに書いてあった、テクノロジー、という存在についての見解もとても賛同できるものでした。
地球の自転、太陽のエネルギー、そういうものと人間の存在を区別しない考えはしごくまっとうだと思うんだけどなかなかそういうふうに考えてる人ってすくない。

2007-02-20

オレステイア





最近クセナキスのオレステイアにハマってる。

音楽劇、オレステイアです。


 誰だっけ、古代ギリシャの劇作家、アイスキュロスの古代劇オレイステイアに、20世紀のギリシャ狂超人作曲家クセナキスが音楽をつけたものなんですが。


 ともかく、ものすごいっす。


 現代音楽とかそういう領域を完全に飛び出してて、一個のギリシャDNAが現代に噴出してしまったみたいな感じ。一人の作曲家が作った音楽ではなくて、完全に”群集の動物”としての人間からあふれ出てきた巨大な音楽の様相を呈している。


 これ、やっぱり彼の作曲のしかたが数理計算、確率計算からなされてるからなのか、といまさら気づいた。彼のこの作曲の仕方って、このためにあったのか・・と今更やっと理解できた感じです。


 つまり、クセナキスは「一人の人間が作曲をする」という行為の限界を越えて、人間本来が古来から行ってきた音楽、つまり集団として決起したときに起こる動物的現象としての音楽を再び成しえるために、数学というある意味で神のツールを使って、音楽を現象学的に再現してしまった。






 だから、超強烈なんです。大量の人間が集まったときの音楽が。これは一人の人間が頭で考えて成しえる音じゃない。

 しかもそれが偶然毎回違うふうにできる即興じゃなくてすべて譜面に設計図として書き記されてるところが説得力も持っていて・・

 しかしすごい割り切りだなと思う。物体の、偶然に起こる現象の瞬間を、一枚の写真に収めるように全て数字で一次元に焼き付けてしまうわけだから。 

 例えるなら、水面に水滴が落ちて跳ね返った雫の芸術的な形を、数理計算でもって計算して完全に一オブジェとして定型化してしまったような事ですよね。


 この全く自我を作曲から排して、”数字”という超現実に任せたような向き合い方も、ある種の達観みたいにも思うんですけど、こういう理論追求を繰り返しまくった彼が晩年一種精神異常だかアルツハイマーみたいになって、とにかくなんでも素晴らしい!と言いまくっていたのも、実は解脱だったんじゃないかとか、ちょっと思う。以下の引用により。



晩年逝去する直前に、京都賞受賞に際して語った最近の心境についてのコメント


 新しい理論を持たない現在の心境は、大いなる自由の境地であり、新たな独創性の始まりであること


ともあれ、晩年の曲もヤバイです。 

2007-02-19

循環回路に没す

 休日を楽しんでます。といいたいところですけど、ひたすら休むに徹し。

 自転車をこっちに来たときに買おうかどうかそうとう迷ったんだけど、やっぱ買っておけばよかったかなあ。自転車で川沿いにどこまで行けるかやってみたかったです。一応、オランダのロッテルダムまで行けるはずです。それから北海。


 禅問答に、「両手の鳴る音は知る、では片手の鳴る音とはいかに?」という”隻手の音声”という公案がありますが、答えられますかね?

 ちょっと考えたけどね、ぜったいわかんねえ。
鳴る、も鳴らない、も同じなんだな、とか
鳴ってる、とか鳴らないと自分で区別してるだけだ、とか
心の中で隻手の音声が鳴ってる・・とか、
どれも誰でも思いつきそうなことで。

 とりあえず今は、「片手の鳴る音は知らない、と知る」ぐらいの程度でしか答えられないかなと。

 要するにこれは、人間の執着に対しての挑戦的な問いなんですね。そして、この問いに対して苦心に苦心を重ねた自分が瓦解した瞬間が、この公案の答えというか。

 そういうことって多いっす。


 つまりこういうことを書いている時点で、全然修行が足りないわけです。そして修行が足りないということを書いている時点でも、修行が足りないわけです。そして修行が足りないと書いていることが修行が足りない、と書いている時点でも、修行が足りないわけです。そして修行が足りないと書いていることが修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で、修行が足りないわけです。そして修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りないわけです。そして修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で修行が足りない、と書いている時点で、修行が足りないわけd

2007-02-18

連休の初日






連休の初日・・

もう昼間からよっぱらって・・

いま夕方4時ですけど、なんだかよくわからないけどありとあらゆる酒を飲まされてすげえ良い気分です。


今日午前中、Concert Aperitifに出演していた盟友クリストフのブラームスを聴いて、そのまま彼の息子マティアスの3歳の誕生日とマリーの5歳のパーティーにお邪魔させてもらっていました。


みんな親戚なのに俺だけ里のわからない異人が混ざって申し訳なかったんだけど・・すごい歓迎してもらって・・料理、酒、デザートをたらふく食ってきた。

 クリストフの演奏はかなり素晴らしかったと思います。息を飲むほどに音楽に入り込んでいたし、モーツァルトのファンタジーもみごとにモーツァルトを生きていて気の聞いたユーモアに惹きこまれました。クラシックであそこまで音楽に没頭した演奏できる人っていうのはなかなか出会えないと思うなあ。

 演奏前、やたら緊張した彼が「暗譜か譜面ありかどっちがいい」と言ってかなり迷ってたので暗譜で決まり、と押してあげたんだけど、暗譜で大正解だったと思うわ。


 今週一週間ある休みは、アントワープに行ってこようかなと思っています。


 実は留学してきてからアントワープへは一度も行ったことがないし、やっぱりベルギーといえばアントワープなんじゃないでしょうか。

あそこはオランダ語と英語だよね。フランス語はかなりきついかなと。


 王立美術館にも行きたい。


 フランス語でアントワープはアンヴェルスといいます。
 オランダ語でリエージュはルイクといいます。

ベルギーは完全にオランダ語とフランス語で分裂しています。

同じベルギー人なのに、片言で話し合っていたり、

この感覚は、日本人の自分にはかなり理解できません。


オランダ語圏のベルギー人と、フランス語圏のベルギー人はお互い違ったベルギーのアイデンティティを持ってる感じがします。

かたや、IT技術国際立国としてのベルギー、かたや、美食と古典文化としてのベルジック、全く相反する誇りを一つの国のそれぞれのパートが担っているようで、とても不思議。


 まあ、そんな感じですが、今日はもう寝ようかな・・





2007-02-17

ひろみ始動

 ということで、いままで使っていたブログ本文に突如広告が介入するようになったので、こちらに引っ越して参りました。

 およそ一年ぶり、Bloggerへの復帰です。


 今日は、なんにもない、いい一日だった。byボクくん

洗濯して、昼寝して・・


 あんまりにもなんにもなかったので写真でも載せよう。
















ファトゥマ・ジャバ









ギリシャ、サントリーニ島イアからの眺め
去年行ったときのです。
旅行記続けないとなあ