2007-04-26

ジョン・ケージの日




 長いです

 とてつもなく疲れた・・こんなに大変な日になると思っていなかった。

 コンセルバトワールのジョン・ケージ祭、ジョルネ・ケージが終わりました。

 どこが出資元なのかもわからないけど、かなり気合入ってて、学校総出の企画で1日3回のコンサートでケージのありとあらゆる作品を演奏しまくりました。学長も来ていた。


 で、自分は16時からの部と20時30分からの部に出演させてもらった。

 16時からの部は、私の弾く「6つのメロディー」ギターデュオ版を、「リヴィングの音楽」のあいまに散りばめた超フリースタイルで切れ目なく演奏しました。
お客さんの椅子もバラバラで、中心も無い感じで、中心ぽいところにソファーとリヴィングっぽいテーブル、植木とかが配置され、いつも試験で使う教室が一瞬にしてリラックスリヴィングルームのようになりIDC大塚家具みたい。


 「リヴィングの音楽」は、4人の奏者がリヴィングの空間を使って、そこらへんにある雑誌とか、テーブルとか、椅子とかをアフリカンリズムのように鮮やかなコンビネーションで奏でるリズム音楽。
まるで日常のシーンから突如見えない音楽が湧き上がってくるみたいで、よかったです。

 で、彼らの楽章のあいまに、小品を一つずつ、お客さんの中に立った私たちが演奏しました。
 窓も開け放たれてて、夕方に、だれかの練習する音とかも迷い込んできて、たゆたんだような我々の空間と絡み合って、かなりよかったと思う。

 中心のない演奏会場の雰囲気ってなかなか良い。


 それから18時からあった「サティーへの手紙」と題したピアノ音楽の部を聴きに。

 プリペアドピアノのための小品、生で聴いたらものすごい衝撃。あれは生で聴くべき。ちょっとプリペアド具合が足りなかったような気もする。


 20時30分からはホールにあるカフェに移動して大トリ。

 12台のラジオのための”ランドスケープ”と、ヴァリエーションのⅠ~Ⅳを演奏。

 プログラムを貰い忘れたんで曲名がわかんないんだけど、4人の演奏家がトイピアノや石やサイレンやピストルで演奏した曲が、そうとう来た。

 ほとんど、「ポーン・・」とか「ガーン・・・」「グシャシャシャ・・・」みたいな単発音だけで出来てるんだけど、ある程度時間がたってふと気がつくと、その沈黙の美しさに唖然・・沈黙の距離感の美しさ・・これはほんとうに、ベタですが龍安寺の石庭を前にしたときのような特別な空間感覚。

 あるすごいタイミングでお鈴が、ポーン、と入ったときにはその西洋装飾の天井を眺めながら泣きそうになってしまった。

 沈黙に聴こえてくるバイクの音とか、夕方の湿った外の雑音もフと入ってきたりして、なんか小学校のときのけだるい夕方とかを思い出した。


 ラジオの曲の演奏はまあまあだったと思います。演奏してたからよくわからないけど。俺のラジオには突如ロシア語放送とか入って嬉しかった。


 ヴァリエーションは一番難しかった。
4作品とも完全な偶然性の図形楽譜をつかった作品で、リアライゼーションの誠実さが一番問われる曲だと思う。ほんとに厳しい。

 我々がやったのは、そうとうユルイ部類の演奏だったんじゃないでしょうか。単純に即興をするっていう。「適当」の一歩手前、紙一重。

 もっと極限まで完璧な作りこみをしたかったなあ。
極限まで作りこんで、そこから一気に解放するっていうコントラストのある演奏がしたかった。


 追記:この日の午前中には学校で、ブリュッセルからそのスジのスペシャリストの方が来て、「アフリカンリズム、インドのリズム、どうなってるの?」の特別セミナーがあったのだけど・・・インドのリズムすげーーー・・・・・宇宙・・

2007-04-10

休み中

 日曜日からはずっと家にいて疲れをとっています。
復活祭の休みだからね。

 今日メディアテックでフローベルガーのクラヴサンの組曲集を借りてきて聴いてます。Bob van Asperenの演奏。
 演奏がいいのか楽器なのかは分からないけど、かなりいい。。

 楽器は作者不明の1700年代のフランスの楽器らしいけど、チェンバロの印象を覆されるほど豊かでたおやかで美しい
 一緒に借りてきたバッハのフランス組曲も聴いたんだけど、やっぱバッハはもういいや、って感じ。高橋悠治の「バッハはもういい」じゃないけど


 バッハより前の作曲家の作品はことごとく、ゆったりした夜に聴いても、疲れた帰宅後にどっぷりとリラックスしながら聴いてもとても心に染み入ってくるものが多いとやっぱり思う。

 フローベルガーははじめてしっかり聴いてみたけど、時間の情緒がまだ生きている時代の音楽だなと思ってちょっと意外だった。

 ギタリストがたゆたみながらコードをかみ締める感じが、クラヴサンにある。バッハになると急に、鍵盤を前にした事務員のような窮屈さが出てくる。とたんに、「クラシック音楽(古典派て意味じゃなくて)」聴いてる気分になる。


 バッハって、やっぱ勉強するべきなのかな・・?その辺最近よく分からなくなってる部分。まあ、弾きたかったら弾けばいいとは思うんだけどね。



 ところで全然話が違うけど、最近日本の携帯観察してて、こっちと比べての先進具合にあらためてスゲーと思ってます。SIMロック方式(?)が日本の携帯産業を鎖国状態にしてるっていうけど、鎖国なりに発展度がやっぱりすごい。。独自の温室で発育してるって感じで。

 こっちの携帯はカードを入れ替えるだけだけど、これだとやっぱり電話会社のサービスっていうのが端末レベルまでに行き渡りにくいせいもあってか、細かい部分までのサービスが発展しないんだろうな、という感じがする。

 欧米はこれでいいのかもしれないけど。「しょせん電話じゃーん」の大雑把な感じだし、日本のように街中そこかしこで若者が携帯いじりまくり、の現象はほぼ無い。携帯に縛られてる感じは薄い。

2007-04-08

サンキャ




 昨日までフランスブルターニュ地方にある海沿いの街、Saint cast(サン・キャ)というところに1週間自分の先生の講習会に行っていました。

 予想していたとおり地獄でした。


 一日2回それぞれ1時間のレッスンに加えて、身体と楽器のための授業2時間、それをほぼ1週間毎日です。
そして同居の友人男2人たちはまったく料理というものをしないため、1週間缶詰レトルト生活でうんざり。

 めっちゃくちゃ海がきれいなリゾート地なんだけど全然リゾート地にいたという記憶がない。
こんなスケジュールで練習する時間すらないのに、言われたことがちょっとでも出来てないと猛烈な説教でしごかれる。
 しかも同居のやつらのフランス語がナゼか全然聞き取れなくて(かなり若者言葉っぽい)完全に俺は一人の世界に入り込み、没念とした感じでおって、知恵遅れ扱いされながら、西洋人の生活リズムに振り回されまくって強烈なストレスの蓄積に性根尽き果てたという感じで。それでも毎晩一緒に呑みに出かけ、毎回ベロベロで2時3時に寝る、みたいな生活だったんで体力的にもかなりキた。

 まあ愚痴ればキリがないんだけど。

 ほんとキツかったっす。


 しかしながらミッカにかなり集中してとりくむことができた。
講習開始2日目ぐらいにいきなりファイナルコンサートで弾け、とか言われて、まさにミッカ講習となり、それなりに熱い講習にもなった。

 最後のレッスンの前の日、「今日はもう見てやらないから、明日のレッスンで私が言った事全部できていなかったら殺す」と言われてしゃがりきでさらい、最後のレッスンでは一応音楽面では認めてもらえて、ご褒美と称して先生が人生で一番好きな曲、というのの譜面を与えてもらいました。

 この光景は夕暮れ時だったのもあってさながら剣士の師匠が弟子についに皆伝を認めて伝家の宝刀を手渡す瞬間のように見えて、一人であとで勝手に浸ったりしていました。


 ともあれキつかった・・2年前に行ったときも半年分の精神力と体力を奪われたようだったけど、今回もキつかった。

 帰りは、ブラジリアンのブレンダという打楽器の女の子と一緒になって、パリまで一緒に帰ってきた。
この人がまたかなり個性的で、話し方とかしぐさがまるで羽衣の中を常に舞っているかのように、ひたすら漂った印象的な人でした。薬でもやっているんじゃないかというぐらい。

 でも音楽的な話やどういう音楽をやっていきたいかっていう話でかなり意気投合だった。
もう勉強とかウンザリだよね、とか、めちゃくちゃなことやって前衛、とかもうたくさんだよね、とか、いろいろ話しながら帰ってきた。
 いつかなにかで再会できたらいいなとか思ってる。